昭和50年03月26日 朝の御理解



 御理解 第45節
 「世に、三宝様踏むな、三宝様踏むと目がつぶれるというが、三宝様は実るほどかがむ。人間は、身代ができたり、先生と言われるようになると、頭をさげることを忘れる。神信心して身に徳がつくほど、かがんで通れ。とかく、出るくぎは打たれる。よく、頭を打つというが、天で頭を打つのが一番恐ろしい。天は高いから頭を打つことはあるまいと思おうけれど、大声で叱ったり手を振りあげたりすることはないが、油断をすな。慢心が出ると、おかげを取りはずすぞ。」

 信心をさせて頂いて、色々とおかげを頂いておりますけれども、慢心が出るとそのおかげを取りはずす。これは形の上の事もそうですけれども、心に頂いておるおかげです。心に頂いておるおかげを取りはずすと言う事が、一番身近に感じます。信心によって心が助かる。本当に有難い有難いと言うておる。勿体ない勿体ないと言うておる。所が慢心が出ておる。だから心の有難いのが、何時どこでかなくなってしまって、淋しかったりいらいらしたり腹が立ったりするのです。
 これは慢心が出ておるからだと、まず思わなきゃいけません。頂いておるおかげ信心によって有難いなぁと、勿体ないおかげを心の上にも、形の上にも頂いて有難い。そこを思うそこを見つめておったら、不平不足の出る余地はないのだけれど、慢心が出ておる。如何にも自分が出来ておるように思うたり、いわば自分が如何にも先生に成った様な積りで、自分を身高う自分の身を思う所からです。
 それこそ天は高いから頭を打つ事はあるまいと思うけれども、大声で叱ったり手を振りあげたりはしないけれども、心が苦しい心が痛むという時には、確かに頭を打たれておる時と悟らしてもろうて、改めて心の転換を願わせてもらう。心の浄化を願わせて貰う。昨日研修会の時に、その事を皆さんに聞いて頂いたんですけれども。私共がそうして心の転換の出来ない所に、悩み苦しんでおる。そういう時には一番手っ取り早い精進は、無償の働きをする事だと。
 高い所から低い所へ水が流れるように、自然な心の頂き方と言うものがある時には、それこそ何の不足も非ずであります。高い所から低い所へ自然に自然に、そこにどういう障害物があっても、そこの所にズッと流れて行ってはそれを越えるとか、又廻って流れて行くと言う様に、本当に水の流れるに不足も非ずと言う様なおかげが頂かれねばならない教えを、日頃頂いておるのだけれども、自分の心が自然に反して不自然になる。
 御神意に反して、御神意に反いた生き方をしておる所から、心が動かなくなってくる。そこに、淋しいとか腹が立つとか、いらいらとかという、おかげの受けられない状態になってしまう。そういう時には先ずは自分が、慢心が出ておる時と思うて、おかげを頂かなければならない。それには無償の働き無条件の信心、無条件の働き是をすれば幾らになるというのではなくて、無条件の働きを一生懸命させて頂いておると、心の転換が出来ると言う様な事を、昨日頂いたのですけれども。
 私は今日思うのです。世に三宝様踏むなとこういう。是は大切なものだという事です。ここでは穀物の意と、下に説明がしてございますかね。穀物というのは人間の命の根ですから一番大切なもの。けれども信心させて頂いておって、一番大切なものは何かと。私は教えを頂く事だと思うです。信心させて頂いて一番大切な事は、教えを頂くという事です。此方の道は祈念祈祷で助かるのではない。話を聞いて助かる道と仰せられます。此方の道は祈念祈祷で助かるのじゃない。話を聞いて助かる道だと。
 そこで皆さんがです、本当に話を聞いて助かろうという気を起こさなければ駄目です。只参りよりゃおかげ頂くと言う事じゃ出来んです。毎日毎日お参りをして一番大切なものは教えです。ですからその大切なものを踏むなと。踏み付けにするなと無駄にするなと言う事です。教えを大切なものとして頂いておれば問題はないです。所がその教えを踏みつけておるから目が潰れてしもうておる、分からなくなってしまっておる。
 私は金光様の御信心は、どうしてもその教えを一番大切なものとして、教えを頂くという事。私共色々信心させて頂いて、ここの様に御理解に明けて暮れると言う様な教会は非常に少ないです。ですからお参りしても御理解を頂く事も出来ない。御教えを頂く事が出来ない。月次祭位に頂くぐらいな事。それでどこの教会に行っても衝立があるとに、衝立の所にこうやって掛けてある
 。御理解集とか御理解のカレンダ-が掛けてある。日めぐりが掛けてある。ですから私は心が、どうにか落ちつかないとか、おかげを頂かなければならん事がある時にはその日の御理解を、今日はこれを頂かんならんのだと思うて、それを信じて参りよりました。それで、御理解何節なら何節が出ておると、その中から、何かピタッと自分の心に受け止めるものがある。そしてそこに問題が解決する。
 心がスッキリすると言った様なおかげを頂いておる。その気で私共が日々お参りすると、まるきり私一人の為にこのカレンダ-があるように、的確に頂ける様になってくるです。ましてや此処で神様の御心というか私の体験。御教えに基づいて生まれてくる体験、又は神様から直接頂いた事を、皆さんに聞いて頂いておるのですから、是で助からない筈は絶対ないです。けれども本当に頂いて助かろう教えというものを、その様に一番大切なものだと頂いていないから助からんのです。
 時々助かっておる位の事では出来ん。毎日助かっていかにゃいけん。為にはその一番大切なもの、その教えをああ心がどうもスッキリしない。今日はこの事をお願いしておかげを頂かなならんが、どう言う様な心の状態になったら、おかげが頂けるじゃろうかと。例えば商売人なら商売人が、今日は支払いが幾ら幾らあるが、お繰り合わせを頂かにゃならんが、どういう心の状態になったら、お繰り合わせを頂くじゃろうかと思うたら良いのです。そして今日の御教えを本気で頂くと言う事になっくると。
 ちゃんと金銭のお繰り合わせの頂けるような心の状態が、チャッと頂ける絶対にそれを頂こうとせずに、只おかげ頂きたいおかげ頂きたいと参って、御理解はこっちの耳から入ってこっちの方へ抜けてしまう様な事ではおかげにならんです。一番最後の所に慢心が出るとおかげを取り外すぞと言う所を、今日私は形に頂いておるおかげもさる事ながら、自分の心の中に頂いておる、有難いというものを取り外しておる時には、必ず慢心だと慢心と言う事はどう言う事かと。
 私が高ぶっておると言う様な事もあろうけれども。それではなくて一番大切な三宝様を踏みつけておるからだとまず悟らにゃいけません。三宝様を踏みつけておる。一番大切な御教えを踏みつける同然に、ないがしろにしておるというのですよ。此方の道は話を聞いて助かる道だから、本気で自分が話を聞いて助かろうと意欲しなければ駄目です。一生懸命頂かにゃ駄目です。
 それでもいけん時にはその教えを、本当に無条件の働きと言う様な事に、形の上に現わしたら良い心が清まる。心の有難い転換を頂く事が出来るというふうに、日々自分の心の状態を有難いとか、おかげで助かっておるとかと言う事実を、事実として心の中に頂けれるおかげを頂きたい。痛いのが治ったのが有難いのではない。いつも壮健なが有難いのだ。例えばこの御教え一つでもです有難いと言う事が解るのだけれども。それこそ頂き足らんごと思うておる所に、不平がでる不足が出る。
 水の流れるに不足も非ずと言う様な心の状態を願い求めて、おかげを頂かなければいけません。天で頭を打つと言う事は、もう既に頭が痛い心が痛む、神様がホラホラと叩きよんなさる所だと思うて、おかげを頂いていかにゃいけません。三宝様を踏みつけるような事をしてはならない。三宝様とは穀物の意、穀物とは一番大切なもの。信心をさせて頂いて、一番大切なものは教えだと思う。その教えを踏みつけておかげの頂けるはずはありません。
   どうぞ。